深い深い海の底に、それはあった。
珊瑚でできた壁。屋根は真珠の入ったたくさんの貝殻。
そして、蒼色に耀くこまかい砂と鮮やかな色彩を放つ草木の広い庭。
上半身はヒトのようで、けれど脚の代わりに魚の尾ひれをもつ――「人魚」と呼ばれる者たちの住む城。
そんな人魚たちの王には数人の娘がいて、末の娘の名をリナといった。
「んにゅ〜たいくつたいくつたいくつぅぅぅ」
もはや口癖のように呟きながら、リナはあちこちを泳ぎ回る。
人魚の寿命は三百年。
一生を海の中で終えることに不満などは感じず、穏やかに過ごしている他の娘たちと違い、十七になったばかりのリナは好奇心が旺盛で、海の上に浮かび上がっては陸を眺めることもしょっちゅうだった。
「ねぇっ、なんか面白い話ないの?」
ざばりと海の上に半身を出し、岩場で休んでいた海鳥を捕まえる。
うんざりしたように海鳥は翼をはばたかせた。
「陸の上の話なら、もうほとんど話し尽くしちまったさ」
「……つまんない。今日はフネとか通らないの?」
晴れ渡った空と穏やかな海を見渡し、リナが紅い瞳を瞬かせる。
「ああ、そういえば海で近くの国の王子サマとやらが誕生日パーティをやるらしいとか聞いたな。
その船なら通るかもしれん」
「王子?」
「よく見かける船に乗ってる奴さ」
「へえ。あの人間、王子だったんだ」
たびたび波間や岩陰から人間の乗る船を眺めているうち、何度も見かける船がひとつだけあったのだ。
「たぶん通るとしたら陽が沈む頃だと思うぜ」
「ありがと」
言い残して空へ飛んで行く海鳥を見送って、リナはまた海の中に潜った。
夕方になるまでの時間はとても長かった。
他の娘のように、城の庭にあるそれぞれに与えられた花壇の手入れをしてみたり、魚の群れにまじって泳いでみたり。
何度も海の上と中を往復しながら時間を過ごすと、やがて茜色の空を背に、見慣れた大きな帆前船が見え始めた。
普段は遠目に眺めているだけだった船。
聞こえてきた賑やかな音楽に誘われるようにして近付いてみる。
陽が沈み、辺りが薄暗くなった頃には船にたくさんのランプがともり、さらにリナは船へ近付いた。
波に押し上げられるように船室の窓を覗く。
見えたのは着飾ったたくさんの人間。
テーブルの上にはリナが見たことのないものが並んでいる。
頻繁に人間の口に運ばれているので、あれが人間の食べ物なのだろう。
前に海鳥に聞いた「肉」というものなのかもしれない。
「人間はあんなにたくさん食べるものがあるのね……
あたしたちは草ばっかりだっていうのに」
リナは食欲に関しても他の娘たちと違う。
海の中では毎日が海草ばかりで、リナにはそれがどうしても不満だった。
しばらく船室の様子を眺め、ふと甲板のほうへ視線を移すと、何人かの人間が音楽に合わせて踊り始めていた。
「……あ」
その中に見覚えのある顔を見つけて、リナは小さく声を上げた。
長い金の髪と、海のような蒼い瞳の青年。
周りにはいつも彼とともに船に乗っている人間もいたが、彼ほどの長身美形は見当たらない。
リナは彼を見るたびに、以前、難破船で見つけた美しい少年の大理石像を思い出していた。
今まで間近で見たことはないけれど、どこか似ている気がする。
彼は、他の者のように踊りはせず、料理を片手に談笑していた。
「――いかがですかな、ガウリイ様」
老齢の男性が彼に近付き、そう声をかける。
ガウリイと呼ばれた蒼い瞳の青年は、満足そうな笑顔で、
「ああ。すっごく美味いぞ、この料理」
「……ガウリイ様……」
気が抜けたように老人は項垂れた。
「相変わらずですな……
食事に関しては国にはとてもガウリイ様に敵う相手はおりませぬ。
お見合いの方々もいつも呆れて破談になる始末。
ですが本日でガウリイ様も二十と三。
いくら兄上様が国を継いだとはいえ、今年こそはガウリイ様にも身を固めて頂かなくてはこの爺、いつまで経っても安心して老後を過ごせませぬゆえ」
「……そう言われてもなあ……」
困ったように頭を掻くガウリイ。
波間から甲板の会話を聞いていたリナは、小さく喉を鳴らして笑った。
(変なの。外見と中身が全然違うわ)
けれど嫌われてはいない。むしろ慕われている人間らしい。
彼の周りには楽しそうな笑顔が溢れている。
その中でも彼のやわらかな微笑みは、とても印象的だった。
(……ガウリイ……か)
人間たちの会話に耳を傾けながら、しばらく人魚の少女は波間に漂っていた。